昨今話題になっている「君の膵臓をたべたい」は、原作、映画化、アニメ化とともに大ヒットを飛ばした作品です。
この作品、もちろんストーリーが面白いからヒットしたのですが、Spi-Navi的にはそれ以外にもスピリチュアル的要素が根底に流れていて、それが観る(読む)人の心にグッとくるからこそ、ヒットしたのだとこっそりと思っています。
今回は、「君の膵臓をたべたい」の中で登場する印象的なセリフに焦点を当て、作品に流れるいくつかのスピリチュアル的考え方について考えてみたいと思います。
なお、これから観る・読むという人にとっては、本記事はネタバレになりますのでご注意ください。
おおまかなあらすじ
人と付き合わず、なんでも自己完結する主人公の「僕」が病院で偶然拾った日記は、実はクラスメートの桜良の秘密の日記「共病文庫」でした。
膵臓の病気で余命1年の彼女ですが、周囲には病気のことは内緒にしているので、「僕」は家族以外で唯一病気を知る人物となることに。
彼女の「死ぬまでにやりたいリスト」につきあううちに、「僕」は人を排除するのではなく「人と向き合い人に愛される人間」になる決意を、桜良は「元気で誰とでも仲良くなれる人気者」の自分ではなく、一人の人として素の自分を必要とされる実感を手に入れていくのでした。
最後は、桜良が余命を全うする前に通り魔に刺されて亡くなってしまうのですが、おとなになってもやはり人と向き合えない「僕」は、ふとしたきっかけから彼女との日々をもう一度思い出し、今度こそ人や自分自身と向き合う決心をし変わっていく、というストーリーです。
桜良のセリフで使われるシンクロニシティの概念
こうして書いている最中でも、もう一度映画を見たくなってしまうくらい良い作品なのですが、この作品の中でまず効果的に使われているのが、人と人との「出会い」です。
「僕」と「桜良」はクラスメートであるにもかかわらず、その正反対の性格から接点はありませんでした。「僕」は徹底した個人主義で、一人で行動し常に本の世界に没頭しているような青年で、クラスメートの名前すら満足に覚えていません。
それに引き換え「桜良」はクラスの人気者で、彼女の周りにはいつもたくさんの人がいて楽しげです。誰とでも気軽に話す桜良はクラスのムードメーカーで、明るく元気なキャラクターです。
そんな桜良ですが、実は誰に気を遣うこともなく自分の世界を持っている「僕」に、ひっそりと憧れてもいたのでした。
ある日、「僕」が病院で落ちていた手帳を何気なく拾います。なんだろうと中身をパラっと見ると、余命1年の女性の日常や心情が綴られた日記でした。
それは、膵臓の病気にかかっているクラスメートの桜良のものでした。桜良は残りの1年という残された時間で、病気を受け入れて病気と共に過ごし、精一杯生きようとしていましたが、家族以外には誰にも病気のことを知らせていませんでした。
もし知らせてしまえば、変な気遣いや動揺などをされて、今までどおりのつきあいができなくなるからです。それが分かっているからこそ、彼女は周囲に病気のことを知らせていなかったのです。
しかし、「僕」は違いました。「僕」は、病気のことを知っても淡々と普通に接してくれました。「僕」は彼女にとってすぐに特別な存在となりました。そんな「僕」に、彼女は日常を共に過ごしてくれる人として白羽の矢を立てたのでした。
出会いの経緯を書いただけで前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、桜良が「僕」に言ったセリフの中で、とても印象的な言葉があります。それは、
私達は、皆、自分で選んでここに来たの。
君と私のクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。
運命なんかでもない。
君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。
私達は、自分の意志で出会ったんだよ」
というもの。
シンクロニシティとは、「意味のある偶然の出来事」です。その根底にあるのはユングの集団的無意識で、人類は皆、無意識下では記憶を共有しているという概念なのですが、このセリフはまさに、それを彷彿とさせるような言葉ではありませんか。
引き寄せの法則とも通じますが、人は誰でも一瞬一瞬が選択の連続です。引き寄せの法則は、望む未来を引き寄せるための出来事を選択していくという概念ですが、シンクロニシティも、必要だからこそ巡り合わせた出来事という考えです。
桜良は「僕」との出会いを、そんなふうに「必然」で、出会うべくして出会ったのだと言っているんですね。
全編に流れる「死と再生」のテーマ
桜良の明るい性格やセリフのおかげで、一見爽やかな青春ストーリーのような風合いがありますが、実はこの作品には「死と再生」という大きなテーマが隠れています(あくまでも私見ですが)。
再生というとまるで桜良が生き返るように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
このストーリーは、大人になって母校で教師をしている「僕」が、図書館取り壊しのために図書館の整理をすることで、桜良と過ごした図書委員としての短い時間を追憶するというものです。
その中で「僕」は、高校生の時間の中に置いてきてしまった桜良との約束を、見事果たすのです。桜良との約束とは、人と心を通わせるということ。
これはただの約束ではなく、「僕」がもっとよりよく生きるために変わる行動を促す行為です。桜良は、これからも生き続ける「僕」に、自分の分まで豊かに生きてほしいと、その思いを託したのです。それは、桜良のこんなセリフにも象徴されています。
そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」
桜良は自分が亡くなったあと、「僕」に見つけてほしい手紙を、まるで宝探しゲームのように隠していました。
「僕」は図書館整理の際にそれを見つけ、何年もお預けにしていた「桜良の友人に『友達になってください』と言う」を実行するのです。
「死と再生」とは、今までの自分が一度死に(本当に死ぬのではなく象徴としてです)、新たな自分に生まれ変わるということを言います。
この作品では桜良の死を通して、「僕」が生き方を変える、生まれ変わるという見事な伏線が張られているのだと感じました。
そして、大人として成長した「僕」だからこそ、このタイミングで見つけたのだと思いました。まさにシンクロニシティです。あなたはどう思いますか?
1日の価値の重さ? 桜良のセリフに観る人生観
作品の要所要所では、自分の余命を知り、たくさんのことを考えたであろう桜良から、まるで達観したような言葉の数々が飛び出します。
たとえばこれも、そのひとつ。
そういう意味では私も君も変わんないよ、きっと。
一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の
今日の価値は変わらない」
誰だって突発的な事故などに巻き込まれて人生が終わってしまう可能性があるのに、私たちはなぜか自分は長生きすると思い込んでいますよね。
死ぬことを意識している桜良だからこそ、こんなハッとするようなセリフが出てくるのでしょう。
これはなにもスピリチュアル的な考えというわけではありませんが、命に貴賤はないように、確かに誰にとっても1日の大切さや価値は平等ですよね。桜良の最期は病気とは全く関係ないという大どんでん返しがあったわけですが、それこそ、このセリフが桜良の最期の布石になっていたのではないかと思うほどです。
まとめ
「君の膵臓をたべたい」に垣間見られるスピリチュアル的な要素について、お伝えしましたが、この記事はあくまでもshirushi個人の見解です。
もし作品の大ファンで、不愉快な思いをする人がいたとしたら申し訳ありません。
しかし、お伝えしたかったのは、スピリチュアルっぽいということではなく、いわばリスペクトです。それだけ幾重にも深みのある素晴らしい作品だということが分かっていただけたら幸いです。